CHOICE-葬送の水礼-

CHOISE-葬送の水礼-

2024年4月1日。
日本各地で、満開の桜が人の新たな門出を祝福する中――――。
東京都、新宿区にある事務所の一室で、二人の男が顔を突き合わせていた。

「お願いします・・・死なせてください・・・・・・」

二人の内の一人、年配の男性がそんな懇願をする。
それを聞いたもう一人の若者は、年配の男性の目を真っ直ぐに見据え、答えを返す。

「分かりました」


1.新職業、業務案内

今から約10年前、安楽死基準法が制定された。
この法律は自死を是とするモノで、これにより全日本国民は、自分の意志で人生を終わらせる権利を得た。
そして、その制度利用者を補助する為、新しく出来た職業[安楽死整理士]。
その安整士(あんせいし)として僕、水上正一(みなかみせいいち)は――――。

死の案内をしている。

「ふぅ」
「お疲れ様~水上君」

一通りの手続きを終えて一息ついた僕に、中年の男性が労いの言葉と缶コーヒーをくれる。
この人は、この安整士事務所の所長である久瑠石善(くるいしぜん)。
柔和な笑顔にチョビ髭、癖毛の髪。
一見、気遣いの出来るいい上司に見えるが、実は結構適当で困った人だ。

「ありがとうございます」

早速、僕は貰った缶コーヒーを一口含み、手続きの説明で枯れた喉を濡らした。

「で、理由はなんだって?」
「・・・・・・あの方は、半年前に奥様を亡くされてしまったそうです。
子供や他の親戚もいないそうで・・・それで・・・・・・」
「そっか・・・・・・」

こういう事例は珍しくない。
孤独というのは、想像以上に辛い物だ。
『死にたい』と思った時に、止めてくれる人がいない位には。

「水上さん」

所長と話をしていると、ドアから女性が入ってきた。

「私、まだ前の処理終わってないんで、次の相談者を任せてもいいですか?」

この娘は、僕の後輩である糸巻美織(いとまきみおり)。
眉目秀麗という言葉が似合うキリッとした美人。
そして、その綺麗な顔に、おでこから左目を走る様に傷跡がある。
昔は気にして隠していたが、今は髪をかき上げ、カチューシャでバッチリキメている。
凄く落ち着いてるし、僕より何倍も優秀だ。

「分かりました。通して下さい」
「美織ちゃんは今日も綺麗だね~」
「・・・・・・」
「あは~無視する美織ちゃんもカワイイな~」

所長のだる絡みを完全無視する糸巻さん。
ここでは、よくある光景だ。

「失礼するよ」

そうこうしている内に相談者が顔を見せる。

「お待たせしました。こちらへどうぞ」

現れたのは、高そうなスーツを着た男性。
髪はオールバックで、顔には円いサングラス。
まるで、海外のスーツモデルの様な御仁が現れた。
僕は彼を客席へ案内し、受付で書いてもらったであろう簡素な書類を受け取る。

「井頭誠司(いがしらせいじ)さんですね。今日はどういったご用件で?」
「ええ、安楽死をお願いしたくてね」
「・・・・・・まだ46歳という事ですが、何故安楽死を?」

”人生を終わらせる権利を得た”と謳ってはいるが、実情は35歳以下の健康体に安楽死の認可はほぼ下りない。
勿論、事情次第で認められる場合もあるが、そういった相談者には、まず心理カウンセラーを紹介するのが決まりだ。
46歳も平均寿命から見れば、まだ若いと言えるだろう。

「理由を言わなければならないのかな?」
「出来れば、で結構です」
「特に理由があるわけではないよ。私は今までずっと、やりたいことをやってきたんだ。会社の経営、スポーツ、旅、大衆娯楽に至るまで、あらゆる事を享受し尽くした。
だからもう・・・満足なんだ」

そう言った井頭さんの表情は、本当に満足げだった。

「”生きてやることが無くなったから”という訳ですか。成功者ならではですね」
「私が成功者かどうかは置いといて。それで、どうかな?」
「参考になりました。ご協力感謝します。では、この書類に必要事項を――――」

と井頭さんに書類を差し出した瞬間、いきなり――――。
バタンッ!
と勢い良く事務所のドアが破られた。

「失礼するわ!」

そして、物凄い剣幕の女性と慌てた男性が押し入って来た。
部屋の入り口では、受付の事務員さんが申し訳なさそうに『ゴメン』と手を合わせている。
それを見て、糸巻さんが即座に乱入者達の前へと立ち塞がった。

「何の御用でしょうか?」
「ここに井頭誠司がいるはずよね? どこ!?」
「ふ、藤浪さん、落ち着いて下さい」

慌てた男性に藤浪と呼ばれた女性は、どうやら井頭さんに用があるらしい。

「お知合いですか?」
「ええ・・・妻と秘書です」
「なるほど。糸巻さん」

僕に声を掛けられて振り返った糸巻さんは、頷いて道を開けてくれる。
そして、乱入者達は僕の目の前に座る井頭さんを視界に捉え、足早に駆け寄って来た。

「・・・・・・誠司さん」
「橋田、彩香に伝える必要は無いと言ったはずだ」
「社長、どうかお考え直しください! ISグループには、まだ社長のお力が必要なんです!」
「もう後任は用意してある。それに・・・私にはもうやる気が無い。やる気の無い人間は、周りの足を引っ張る事しか出来ないよ」
「そんな・・・・・・」

秘書の橋田さんは自分ではどうしようもないと言う様に、縋る目で藤浪さんを見る。

「・・・・・・だからって、何で死ななきゃいけないの?」

その目線を受け、沈黙していた藤浪さんが沈痛な面持ちで、そう井頭さんに問いかけた。

「何でも何も・・・私の人生はここまでだと、私が決めたんだ」
「何よ・・・それ! 私に何の相談も無しにっ!」

井頭さんの突き放す様な態度に、自然と藤浪さんも熱が入る。
そして、何となくだが僕にも少しずつ状況が見えてきた。

「井頭さん困ります。ご家族の了承は頂かないと」

安楽死制度は一親等以内の親族がいる場合、その親族のサインも必要となる。
制度の悪用と、”こういう事態”を防ぐ為だ。

「心配には及ばないよ。彼女とは籍を入れていない」
「そ、それは、あなたがっ・・・・・・!」
「なるほど、内縁関係という事ですか」
「はあ!? 何納得してんのよ! こんなの納得できる訳ないでしょっ!?」

有識者の立場である僕の態度も起因して、藤浪さんの温度が更に上昇していく。
しかし、内縁の妻か。
これまた難題が舞い込んで来たな。
一応、事実婚も法的に認められてはいる。
だが認められる為の条件は、長年の共同生活や住民票への記載など色々あるが、
やはり一番大事なのは、当人同士の認知。
この様子だと、井頭さんが認める事は無いだろうな。
戸籍に載らない以上、どうしても曖昧な関係になってしまう。

「藤浪さん・・・でしたね。あなたと井頭さんは法律上、夫婦ではないんです。ですが――――」

と、僕がそこまで言い掛けた処で――――。

「ふざけないでっ!!」

藤浪さんは爆発した。

「何様のつもりっ!? 私達の事、何も知らないくせにっ!!」
「ふ、藤浪さん」

秘書さんが慌てて宥めようとするが、頭に血が上り切った人間は、そう簡単に止まりはしない。

「一体何なの!? 人の夫を寄って集って死なせようと・・・ホントに気持ち悪い!!」
「彩香」

彼女は井頭さんの静止も聞こえてない様子で、僕達に熱を撒き散らす。

「あなた達、世間で何て呼ばれてるか知ってる? 死神とか合法殺人鬼とかって――――!」

これは、落ち着くまで待つしかないか・・・と僕が思い始めた時、井頭さんは息を大きく吸い込んだ。

「彩香ぁっ!!!」
「ッ!?」

迫力ある井頭さんの怒号が、ビリビリと室内に響き渡る。
暴走していた藤浪さんも、流石にグッと喉を詰まらせた。

「これ以上、私に恥を搔かせないでくれ」
「・・・・・・」

藤浪さんは少し冷静になったのか、色んな感情が綯い交ぜになった顔をした。
恥ずかしい、言い過ぎた、申し訳ない、でも・・・折れる訳にはいかない。
そんな表情。
悪い人ではない。
それだけ、井頭さんが大事なのだろう。
とはいえ、流石に居づらくなったのか――――。
藤浪さんは足早に事務所を出ていった。

「橋田、頼んだ」
「は、はい!」

そのすぐ後、橋田さんも藤浪さんを追う為に退出する。
そして、乱入者がいなくなった事務所には静寂が訪れた。

「申し訳ない。身内が無礼を働いた」

井頭さんは二人の乱入に対し、責任者然として頭を下げる。
まあこのぐらい、僕達は慣れてるからいいんだけれどね。

「いえ、お気になさらず。では、書類の続きを――――」
「さっき・・・・・・」

気を取り直して手続きを再開させようとした僕だったが、井頭さんが何やらポツリと言葉を発する。

「さっきは、何を言い掛けていたのかな? 彩香に遮られる前」
「・・・・・・」

さっき言い掛けた事か。
僕は言うかどうかを迷う。
なぜなら、これは感情に基づくお節介だからだ。
安整士としての領分を逸脱している気がするが・・・・・・。
いや、やはり言っておくべきだろう。

「井頭さん、藤浪さんと話し合う事をお勧めします。あなたは、藤浪さんを”妻”と呼んでいました。なら、夫として責務を果たすべきです」

迷った末、僕はそう個人的な意見を述べる。
それを聞いた井頭さんは、何故か・・・嬉しそうな表情を浮かべていた。

「君は、良い人だね。名前を聞いてもいいかな?」
「水上です」
「水上君、話し合った所で・・・私は意見を変えるつもりは無いよ」

例え最終的に意見が変わらなかったしても、話し合う事に意味があると思う。
だが、確実に反対される事を、相談しづらいのは人間の心理でもある。

「・・・・・・そうですか」

これ以上、僕からは何も言えない。
後は・・・二人が解決するべき問題だ。


2.反する者達

時刻が18時を回り、各々が帰り支度を始める時間。

「いや~昼間はビックリしたね~」

所長は興味深そうに、さっきの騒動について端を発した。

「井頭さんの件ですか?」
「そうそう。まあ、彼女の気持ちも解らなくはないけどね~」

現代において、何かしらの関係を書類上に残すと、それに対する責任が生まれてしまう。
最初からそこまで見越して、井頭さんは籍を入れなかったのだろう。
賢い立ち回りと言えるのかもしれないが、藤浪さんからすれば裏切られた形だ。
激昂するのも無理はない。

「同じ女性としては、やっぱり思う所があるんじゃない?」

そう言いながら、所長は糸巻さんを見る。

「・・・・・・別に。他人の事情に思う所なんかありませんよ」
「ドライだね~。美織ちゃんのそういう所嫌いじゃないけど、もうちょっと女の子らしくても良いと思うな~僕は」
「セクハラですか。殴りますよ?」
「パワハラ反対!」
「まあまあ、糸巻さん。一発で許してあげて下さい」
「えっ僕の主張、無視!?」

二人が不毛な『ハラスメント』カードバトルを繰り広げ始めたので、僕が公正に判断を下す。
今のは、どう考えても無遠慮な所長が悪い。

「あっそうだ思い出した! 二人に言っておかなきゃならない事があったんだよ!」
「・・・・・・はあ、何ですか所長」

分が悪くなったのを誤魔化す様に、所長は真面目な表情へと切り替えた。

「最近、反安楽死団体の動きが活発になってきてるみたいなんだよね~」
「例の過激派ですか・・・・・・」

[反安楽死団体]
C教徒を中心に構成された、安楽死制度を撤廃させようと活動する団体。
基本的にデモや呼びかけを行うだけの団体だが、一年ほど前から安整士や相談者に対する脅し、暴力行為等、過激な行動を起こす者達が現れ始めた。

「だから気を付けてねって話なんだけど・・・まあ、君達二人に関しては心配いらないか~」
「私の事を一体、何だと思ってるんですか」
「・・・・・・」
「所長?」

黙る所長に、糸巻さんが満面の笑みで返答を促す。
正に、蛇に睨まれた蛙。
今にも下戸下戸と泣き出しそうだ。
いや、お酒は飲めるだろうけれど。

「あ、そうだ! ハニーに蜂の子を頼まれてるんだった。って事で、お疲れ~」
「どんなお使い・・・ってちょっと待ちなさい! 全く・・・・・・」

蛙は蜂蜜に頼まれて、蜂の子を買いに・・・ってややこしいな。
所長は止める隙を与えず、逃げる様にサッと帰ってしまった。

「ハハ・・・あの逃げ足があれば、所長の心配も要らなそうですね」

井頭さんの件と言い、過激派の件と言い、今日は心配事が増える日だが、今は様子を見るしかない。
さて、今日は僕も糸巻さんを送って帰るとしよう。


3.苦悩に対する微笑

藤浪彩香は苦悩していた。
どうしていい分からず、彷徨い歩いていた。
だからこそ、ここに来てしまったんだろう。
薄暗い教会の礼拝堂。
長椅子に腰掛け、隣には修道女が同席している。
二人の他には、誰もいない・・・・・・。

「あの・・・本当に夫を止めて下さるんでしょうか・・・・・・?」
「フフッ」

修道女が微笑んでいるのが分かる。
悩める者に寄り添う、柔らかな微笑み。
だが、藤浪彩香は席に着いてから一度も修道女の顔を見ることが出来ないでいた。
何故なら、この願いが独り善がりなモノだと自覚しているから。

「ええ、勿論です。我が教会の教えでは、自殺も立派な人殺し。
自分を殺しているわけですから。あなたの大切な人を人殺しにはさせません」
「はい・・・・・・」

そこでやっと、藤浪彩香は修道女の方を見る。
流石に無礼が過ぎると思ったのか、不安な気持ちを少しでも和らげたかったのかは分からない。
だが、それを見て彼女はここへ来た事を後悔する。

「安心して、お任せ下さい」

確かに修道女は、柔らかく微笑んでいた。
でもだからこそ、背筋が凍るほど不気味だった。
人を飲み込もうとする・・・微笑みだった。


4.暗雲

例の騒動から三日。
井頭さんは一度も来ていない。
安楽死制度を利用するには、かなり面倒な手順を踏まなければならない。
まず法務省、民事局に安楽死依頼を受理してもらい、人生の精算処理、役所への届出、病院での施術予約、葬儀屋の手配等々。
手続きは、まだまだ残っているから、あと何度か来て貰わないといけないんだけど・・・・・・。

「今日は暇だね~」
「暇なのは所長だけです」
「アハハ~美織ちゃんは手厳しいな~」

二人がいつものやり取りをしていると、ガチャッとドアが開く。

「水上君、お客様です」

受付の事務員さんに連れられて、一人の男性が入って来た。
やって来た男性は、僕へ向けてペコリと頭を下げる。

「はい。えっと・・・確か、あなたは・・・・・・」

確か井頭さんの秘書、橋田さんだ。
橋田さん一人な事を僕は不思議に思いつつ、彼を客席へ通し用件を伺う。

「本日は井頭さんの代わりでしょうか?」
「えっと・・・一応、はい」
「ん? 一応?」

橋田さんの歯切れの悪さに、僕は引っ掛かりを覚えた。
ソワソワとしていて、どこか落ち着かない様子だ。

「何かありましたか?」
「・・・・・・実は、今日の朝こんなメールが井頭から届きまして」

そう言って、橋田さんは携帯の画面を見せてきた。

差出人:井頭誠司
宛先:橋田壮介

『今、彩香と旅行に来ている。
最後の旅行のつもりだったが、この旅行で私の心境にも変化があった。
悪いが、私の代わりに安楽死の件を取り消して来てくれ』

「これは・・・酷く違和感のある文面ですね」

それが、僕がメールを見ての率直な感想だった。

「違和感・・・ですか?」
「はい、行き先を書いていないのが気になります。それとも、井頭さんはいつもこんな感じで?」
「いえ、こんな事は初めてです。いざという時、困りますから」
「そうですね。死のうと思っている人ならともかく、メールには心変わりしたと書いてありますし。それに取り消しなら、まずはここに電話するのが手っ取り早い」
「正直、自分もおかしいと思ったんです。なので、井頭の携帯に掛けてみたんですが、
繋がらなくて・・・・・・」

そこまで聞いて、僕の視界端から暗雲が漂う。
何か・・・マズイ事が起きている気がする。

「藤浪さんの方には?」
「いえ・・・まだです」

本当に、只の旅行なのかも知れない。
僕の予感は、杞憂なのかも知れない。
だが――――。

「そうですか・・・・・・。橋田さん、少し協力をお願いします」

記憶にある二人の口論が、僕に楽観視を許してくれない。


5.藤浪彩香の想い

私、藤浪彩香は、ある廃墟ビルの一階で項垂れていた。
日はすっかり落ち切り、辺りが暗闇に包まれる中、まるで死人(しびと)の様に私は動かない。
自分の呼吸音が聴こえる程に静まり返っている環境で、上階から微かな物音が聴こえてくる。
その音を聴いていると、自罰意識に背中を撫でられている様な気持ちになった。
でも、私はこの音から逃げる訳にはいかない。
だって・・・この方法を選んだのは、私なんだから。
私は決意が揺らがない様に、こんな事になった根底の部分を思い出すことにした。

私が誠司さんと出会ったのは――――今から11年前の事だ。

「アンタも可哀想ね・・・・・・。こんな路地に一人ぼっちで・・・・・・」

その日は特に珍しくも無く、雨が降っていた。
私は傘に当たる雨音を聴きながら、路地裏で子猫に話し掛ける。
別に、悲劇のヒロインを気取りたい訳ではない。
仕事に行くのが嫌で、現実逃避をしたかったのだ。

「そんな目で見てもダメ。私には・・・アンタを養う余裕は無いの。ごめんね・・・・・・」

子猫はずぶ濡れになりながら、真っ直ぐ私を見つめてくる。
その瞳に後ろ髪を引っ張られるが、流石にそろそろ行かなければならない。
せめて、これ以上濡れない様にと傘を置いて私は立ち上がった。

「あれ、君傘は?」

路地裏を出た所で、知らない男に声を掛けられる。

「・・・・・・貴方には関係無いでしょ」

私はつっけんどんにそう言い放ったが、男は気にした風もなく周囲を見回す。

「・・・・・・なるほど」

そして、私が出て来た路地裏を視界に納め、納得した様に呟いた。
私の頬が熱くなっていく。
男がカッコいいからではない。
いや、男は海外のスーツモデル様にカッコよかったが、そういう事ではない。
安っぽい中途半端な善意を見られて、羞恥心が湧いたのだ。

「もういいですか? 仕事があるので・・・・・・」
「傘が無いなら、私が送って行こう」

羞恥心に駆られて、さっさとこの場を立ち去ろうとした私に、男はそんな提案をしてきた。

「結構です」
「君、ホステスだろ? びしょ濡れで客の前に出る気かい?」

今の私は、コートの下にドレスを着ている。
男はそんな服装を見て、そう判断したらしい。
まあ、間違ってないけど。

「・・・・・・」
「では、行こうか」

そして――――。
何も言い返せなかった私は、今会ったばかりの男と相合傘をして、仕事場へと向かう事になってしまった。

「それで、どっちに行けば良いのかな?」
「・・・・・・そこを曲がって真っ直ぐです」

傘は二人が入れる程の大きさは無い。
彼は私が濡れない様に、傘を寄せてくれる。
強引で、キザったらしい・・・・・・。
苦手なタイプだ。

「不躾な質問かも知れないが、君は何故ホステスになったんだい?」
「・・・・・・何でもいいでしょ」
「いや、どうしても気になってしまってね。無言で歩き続けるのもなんだし、目的地に着くまで会話に付き合ってくれても良いだろう?」
「そんな義務はありません」
「義務は無くても、義理はあると思うんだけどねえ」
「これは・・・アナタが勝手にやってる事でしょ」
「それは、確かにそうだね」
「「・・・・・・」」

二人の間に気まずい沈黙が流れる。
私は少し、申し訳ない気持ちになった。
強引に売られた恩とは言え、恩は恩。

「はあ・・・父が遺した借金があるんです」
「フッ君は良い人だね」

沈黙に耐え兼ねた私を見て、何故か嬉しそうに男は吹き出した。

「何なんですか・・・・・・」

私は馬鹿にされた様な気がして、抗議の視線を男に送る。

「いや、すまない。でもそうか、それは苦労するね」
「同情は要りません。吐き気がします」

私は、この話を更に深堀されるのが嫌で、触れられない様にと棘を生やす。
でも、私の心情とは裏腹に、男からは予想外の前向きな言葉が返って来た。

「同情はそんなに悪いモノじゃないよ。悪辣なモノもあれど、同情、共感があるからこそ人は繋がれるんだ。今、こんな風にね」

私はそこで初めて、しっかりと男の眼を見た。
”同情があるからこそ繋がれる”。
そんな風に考えた事は無かった。
今まで会って来た人達は、私の境遇を聞いて他人事で面白がったり、下を見つけて安心したりと、ニヤケ面で嗤う連中ばかりだったから。

「・・・・・・変わってますね、アナタ」

そのちょっとしたやり取りで、私の棘が丸みを帯びてゆく。
さっきは苦手なタイプだと思ったが、思ったより喋り易い。
少なくとも、普段会うお客よりは。

「ここです」

そんな会話をしている内に、私達は仕事場へと到着する。
外装は地味だが、内装は豪奢なキャバレークラブ[OASIS]。
今日もここで、誰かが作った借金の為に働かなければならない。
そう思うと・・・気が滅入ってくる。

「そうかい。じゃあ私はこれで失礼するよ」
「あっ・・・あの、ありがとうございました」

私は、さっきまでの自分の態度を顧みて申し訳なさを抱えつつも、何とかお礼を言った。

「例には及ばないよ。ではね」

男はそれだけ答えると、あっさりと踵を返して歩いて行く。
私は、その展開に少し拍子抜けする。
去り際、連絡先でも訊かれるかと思っていたからだ。
今まで、こういうタイプには会った事が無い。
強引でキザったらしいが、それと同時に信念を併せ持つ紳士でもある。

・・・・・・もう少し、話してみたかったな。

私は去っていく男の背中を見つめながら、力無く手を伸ばす。
だが直ぐに、”借金を抱えた水女”という立場が、私の手を錘に変えた。
その暗い現実に、つい泣き出しそうになる。
いつの間にか、私の身体は下層の鎖で雁字搦めだ。

「あっアヤちゃん、待ってたよ~」

そんな悲嘆を味わった所で、下の方から声が掛かった。
キャバクラ[OASIS]は、階段を下りて行った先に入口がある。
その入り口前に、化粧をした男が立っていた。

「おはようございます、支配人。どうしたんですか?」
「うん・・・今、倉島組の人がアヤちゃんに用があるって店に―――」

カランカランと支配人が何かを言い終わる前に、店の入口が開く。
そこからは二人の男が出て来た。
一人はスキンヘッドに傷のある、明らかに一般人ではない風体。
で、あるにも関わらず、顔には優しげな笑顔が張り付いている。
もう一人は、短い金髪の青年でチンピラ風味。
傷スキンヘッドの斜め後ろに控え、舎弟然としている。

「初めまして、藤浪さん」
「っ・・・何ですか・・・・・・?」

途轍もなく危険な雰囲気を放つ男達を前に、私は全身を強張らせる。
そんな私を見て、傷スキンヘッドの男が一歩前へと出た。

「まずは自己紹介をさせて下さい。私は倉島組構成員、黒田と言います」

倉島組と言うのは、この辺りを縄張りにしているヤクザ。
当然、キャバクラであるこの店も倉島組を後ろ盾にしている。

「貴方にお金を貸してる金融屋から相談を受けましてね。
この度、こちらが負債先を受け継ぐ事になったんです」
「それって・・・・・・」

自分の顔から、血の気が引いていくのが分かる。
私は今28歳で、業界での市場価値はギリギリ。
そして、負っている借金は約800万。
そんな状態で、ヤクザに目を付けられた者の末路は・・・・・・。

「じゃあ、早速ですが行きましょうか。おい」
「ウッス」

黒田の呼び掛けで、金短髪の青年が私を拘束しようと迫る。

「いやっ・・・放してっ!」
「ッ大人しくしろっ!」

抵抗しようとした私の鳩尾に、金短髪の青年は舌を打ちながら、容赦なくズドッと拳をメリ込ませた。

「グブッ・・・・・・」

息が出来なくなり、涙が滲む。
私は痛みと恐怖で、一瞬の内に抵抗する気力を失った。

「・・・・・・」
「この事は他言無用でお願いします。藤浪彩香はこの店には居なかった。いいですね?」

一連の流れを絶句して見ていた支配人は、コクッと頷き、店の中へと戻って行ってしまう。
唯一お世話になっていた人にも見棄てられ、私にあと出来る事は、この不条理な現状をただ呪う事だけだった。

「・・・・・・」

何で・・・こうなるの・・・・・・?
小さい頃は、あのクズのせいで近所から腫れ物扱い。
やっと死んでくれたと思ったら、ギャンブルと薬で借金を置き土産。
私は高校にも行けず、全てを擲って働いてきた。
そうやって足掻いて・・・それで結局、こんな結末?
どうすれば良かったの・・・・・・?
私に、何が出来たっていうの・・・・・・?
ねえ・・・誰か教えてよ・・・・・・。
私の人生は・・・まだ何も始まってないっ・・・・・・!

「ゔっ・・・ゔっ・・・・・・」

やるせなさが溢れてきて、私の口から嗚咽が零れる。

「可哀そうにねえ」

黒田はそんな私を見て、憐みの言葉を口にした。

「聞いたよ。借金は死んだ父親のモノなんだってねえ。君みたいな娘を見ると、いつも思うよ。生まれも才能の一つなんだってさぁ」

黒田はさっきの優しげな笑みから一変、眼が最大まで引き絞った弓の様に曲がり、口は頬を裂かんばかりに口角が吊り上がっていた。
悪という灰汁を煮詰めた様な・・・悪鬼の形相。

「心底、同情するよ」

その言葉を聞いて、私の心臓がグチャグチャに拉げていく。
恐らく、表情にもそれが現れているだろう。

「・・・・・・」

・・・・・・本当は・・・分かってる。
これが私の人生なんだって・・・・・・。
逆らい様も無く・・・抗い様も無く・・・虐げられ続けるこの状況が・・・私の人生なんだって・・・・・・。
でも、それを認めてしまったら・・・もう・・・・・・・・・。

私が、どうしようもない絶望に沈みかけたその時――――。

「その娘、同情されると吐いちゃうらしいよ」
「ッ!?」

唐突に階段上から声が掛かる。
場にいた全員が、声の方を振り向いた。

そこには――――男がいた。

一目で高級だと分かるスーツを着こなす様は、スタイルの良さも相まって海外のスーツモデルの様。
さっき去っていったはずの男が・・・そこにはいた。

「どなたでしょうか?」

黒田は警戒する様に、いつの間にか先程の優しげな笑みへと戻っている。

「私はその娘の知り合いだよ。手を放してあげてくれないかな?」
「それは聞けない相談ですねえ。この娘には私達、倉島組への借金があるんです。
貸した物は返して頂かないと」
「一千万出そう」
「何?」
「えっ・・・・・・」

男は唐突に現れて、唐突におかしなことを言い出した。
そして懐から紙束とペンを取り出し、何かを書いた後に一枚引き千切った。

「一千万の小切手だ。これで、その娘をこの件から解放してくれ」
「・・・・・・確認しても?」
「ああ、勿論」

黒田は男から小切手を受け取り、凝視する。

「・・・・・・美麻、放してやれ」

紙を凝視して数秒後、黒田はポツリとそう言った。
それを聞いて、私は目を見開く。
急展開の連続に、私の思考が追い付かない。

「ちょっ、いいんすか黒田さん!? もう買い手も決まってたんじゃ――――」

ゴッ!
という音が鳴り、何かを言おうとした金短髪の顔が急にブレた。
気付いた時には黒田の腕が振り抜かれ、そのままドサッと金短髪は尻餅をつく。

「・・・・・・すいません」

倒れた金短髪に一瞥すらくれず、黒田は男に向き直る。

「確認しました。では・・・代金も頂きましたし、我々はこれで失礼します。後日、契約書を受け取りに倉島組の事務所までお越し下さい」
「いや、その必要は無い。契約書はそちらで破棄してくれ」
「・・・・・・解りました。では、その様に」

それだけ言うと私に対して完全に興味を失ったのか、黒田達はあっさりと何処かへ行ってしまった。

「・・・・・・」

私は、放心していた。
夢でも見ている様だった。
絶望して諦めた時に見る、都合の良い夢・・・・・・。
だけど私は・・・自分に都合の良い事なんか起こらない事を、今までの人生で嫌というほど思い知っている。

「・・・・・・何が目的なの?」

だから私は、そんな事を口走った。

「特に、そんなモノは無いよ」
「でも・・・アナタに、ここまでして貰う理由が無い」
「理由は、そうだな・・・君の事が気に入ったからかな」
「ハッ・・・だから今度は、アナタの奴隷にでもなれって?」

私は疑心に駆られて、内へ内へと殻籠る。
まず、助けてくれた事にお礼を言わなければならないのは、頭では解っている。
でも・・・その純真さは、何度も何度も何度も何度も裏切られて、私の中から消えてしまった。
こうやって騙された人が滅茶苦茶に弄ばれて、使い物にならなくなればゴミの様に捨てられる。
ここは、そんな世界なんだ。
だから・・・私も――――。

「いや、君はもう自由だよ」
「・・・・・・!」

”自由”・・・そんな言葉を聞いたのはいつ以来だろうか・・・・・・。

「これから君は、自分の足で自分の為に人生を歩いて行くんだ。
楽しい事も辛い事も、全て自己責任で享受出来る。
どの道を行くのか、自分で選ぶ事が出来る」

そんなセリフを彼は、私を真っ直ぐに見詰めながら言ってくる。
その瞳は本当に綺麗で、目を逸らす事が出来ない。
もう期待して・・・裏切られて・・・傷つきたくない・・・・・・。
でも、この人の眼や声音が、”もしかしたら・・・”と、そう思わせてくる。
本当に・・・・・・。
本当に夢じゃないんだろうか・・・・・・。
私は、希望を持っても・・・良いんだろうか・・・・・・。

「君の人生は今、始まったんだ」

その言葉は驚く程、私の腹の底にストンと落ちた。
それは・・・私が、ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉だった。
だから、もういいと思った。
この人になら、騙されても良いと。

「・・・・・・ゔっうぅ」

そう思った瞬間、涙が止め処なく溢れてきた。
それと一緒に今までの人生が、走馬灯の様に瞼の裏を駆け抜けていく。

「・・・・・・だれっ・・・誰も・・・助けてくれなくてっ・・・でもそれはっ・・・仕方のない事で・・・・・・。
誰だって面倒事にはっ関わりたく無いから・・・だからもう・・・私は終わりなんだって・・・・・・」

私は感情の濁流に飲み込まれ、稚拙な言葉がポロポロと口を突いて出る。
何を言いたいのか、もう自分でも良く分からない。

「私は井頭誠司と言うんだ。君の名前は?」
「・・・・・・藤浪彩香・・・です」
「藤浪さん、今からさっきの猫を迎えに行こうと思うんだけど、君も来るかい?」

私はそんないきなりの誘いに面食らうと同時、言い様の無い・・・不思議な安堵に包まれていた。

「・・・・・・本当に・・・変わってますね」

そして気付けば、いつの間にか雨雲は鳴りを潜め、空はすっかり晴れ渡っていた。

これが、私と誠司さんの出会い。
思えば、その時生まれて初めて、私はちゃんと笑えた気がする。
涙と鼻水でビシャビシャな笑顔だったけれど、あの時ほど世界が綺麗に見えた事は無い。
その後、私達は猫を迎いに行き、私と猫は行く所が無いので、誠司さんの下でお世話になる事になった。
そんな出会い方をした私が、誠司さんを支えたいと思う様になるのは、まあ・・・当然の成り行きだったと思う。
そういう思いもあり、私は誠司さんの仕事を手伝わせて貰いながら、世界を飛び回り、色んな景色を見た。
前の状況からは考えられない程、激動の数年間だった。
誠司さんは行動力の権化の様な人だったから、付いていくのは中々大変な事も多かったけれど、その大変さは何というか・・・”生きている”という感じがした。
私は誠司さんに、生きる事は楽しいのだと教えてもらったのだ。

なのに・・・・・・。
それなのに・・・・・・。
何で・・・貴方の方が居なくなろうとしてるのよ。
・・・・・・させない。
そんなの認めない!
何に縋ってでも止めて見せるっ!

と、決意を新たにした時――――。
ブーブーと携帯が震え、思い出から意識を引き戻される。
画面には[橋田君]の表示。
一瞬、出ないべきかとも思ったが、既に誠司さんの携帯にも掛けているはず。
二人共、音信不通では捜索届を出されかねない。
そう思い、私は着信ボタンを押した。

「・・・・・・何、橋田君?」
『どうも、安整士の水上です』
「っ!? 何っ・・・の用ですか・・・・・・?」

適当に誤魔化そうと甘い認識で電話に出た私だったが、予想外の相手に無様を晒す。
まずいと思った時には、もう遅い。
安整士の水上・・・この声からして、あの誠司さんの担当者だろう。

『井頭さんに用がありまして。代わって頂けますか?』
「・・・・・・それは・・・出来ません。今近くに居ないんです」
『旅行中だと御聞きしましたが?』
「そ、それは・・・誠司さんはちょっと、外に出てて・・・・・・」

動揺した状態の詰問で、私の返答はボロボロだ。

『何時に戻られますか?』
「えっと・・・というか、橋田君から聞いてないんですか? 取り消しの事」

私は度重なる詰問から逃れる為、会話を打ち切りに掛かる。
こう押し切れば、安整士は手が出せない。
”あの人”はそう言っていた。

『・・・・・・僕は井頭さんに一度しかお会いしてませんが、分かる事があります。
井頭さんは、一度決めた事をそう簡単に曲げない・・・頑固な人です』
「・・・・・・」

何とかやり過ごそうと四苦八苦していた私は、その言葉で悟る。
どうやら、この人は誠司さんに何かあったと既に確信しているらしい。

『藤浪さん・・・もし、井頭さんを強引な手段で説得しようとしてるなら、まだ間に合います。
考え直して――――』
「何の話ですか? 言ったでしょ。旅行だって」

私は”折れる気は無い”と暗に示す様に安整士の言葉を遮る。

『藤浪さんっ・・・・・・!』
「分かったらもう・・・私達の事は放っておいてください」

そう言い捨てると、私はブツッと通話を切った。
そのまま携帯を握りしめた状態で再度項垂れる。

「・・・・・・何なの」

癇に障る。
心の患部に触ってくる。
アンタの言う通りよ・・・・・・。
誠司さんは一度決めたら止まらない。
だから、こうするしか・・・・・・。

「・・・・・・他にどうしろって言うのよ」

もう・・・私も止まれない。


6.最良の方法

耳元のツーツーという音を聞きながら、僕は瞑目する。

「・・・・・・」
「失敗・・・したみたいですね」

僕の表情を見て、察した様に糸巻さんは難しい顔をした。
今、僕の周りを橋田さんに加え、糸巻さんと所長も取り囲んでいる。
緊急事態に備え、意見を訊く為だ。

「はい・・・・・・」

藤浪さんの懐柔には失敗してしまった。
そして彼女の反応を見るに、やはり井頭さんの身に何かあったと想定するべきだろう。
だとするならば、事は刻一刻を争い、急を要する。

「・・・・・・嫌な予感が当たってしまったな」

僕は、PCに繋がっていた携帯をUSBケーブルから引き抜き、橋田さんへと返す。
そして、何処かへと繋がっていた自分の携帯を耳に当てた。

「どうだ? 天下」
『ヨユーよ、俺を誰だと思ってんのさ。じゃあ位置情報を送るぜ』
「助かる」

天下と呼ばれた電話越しの男は、楽しげな声音で応答する。
そのやり取りを、橋田さんは驚いた表情で見ていた。

「・・・・・・逆探知なんて、本当に出来るんですね」
「警察の方に知り合いがいまして」

藤浪さんには悪いが、念のため手を打たせてもらった。
電話の男は、僕の友人である天下泰平(あましたやすひら)。
科学警察研究所に特別枠で在籍している天才ハッカーだ。
情報収集、解析、改竄、なんでもござれ。
因みに、天下が科警研にいる理由は、潤沢な予算で最強の設備を揃えられるのと、
警察の名を借りて色々できるから、らしい。
そんな男からの情報を待って数瞬後、ピロンッと携帯にメッセージが届く。

「来ました。・・・これは・・・・・・」

僕の不穏な表情を見て、糸巻さんもひょこっと携帯の画面を覗いてきた。
そして彼女の表情も又、不穏に染まる。

「港区の廃ビルって・・・”旅行”な訳無いですよね」

表示された位置情報は、僕達の不安を更に掻きたてるモノだった。

「えっと~つまりどういう状況なの?」

微妙に所長が話について来れてないので、僕も少し状況を整理してみよう。
井頭さんと藤浪さんの間に起きた不和。
後の消息不明。
いるかもしれない場所は無人の廃ビル。
頑な井頭さんは、真っ当な方法での説得は難しい。
となると、やはり――――。

「井頭さんは、監禁されているかも知れません」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」

起きているかもしれない異常な事態に、橋田さんは焦った様に待ったを掛ける。

「僕もおかしいとは言いましたが、監禁なんて・・・・・・。井頭は大柄ですし、女性一人で出来るんでしょうか?」
「知り合いが協力している可能性は?」
「無い・・・と思います。藤浪さんは天涯孤独の身で、友人も居ないはずですから」

そこまで聞いて、僕の中で一つの可能性が浮かび上がる。
考えられる中で最も高く、出来れば忌避したい可能性。

「なら、”奴等”が絡んでいるかも知れません」
「奴等?」

僕の考えを察した様に、糸巻さんは眼を鋭く細めた。

「反安楽死団体・・・・・・」
「は、反安楽死団体って・・・確かデモとかやってるのをニュースで観たような・・・・・・」
「その中でも、過激派と呼ばれる暴力行為も厭わない連中が、この件に関わっているかも知れません」
「そんな・・・・・・」
「け、警察! 警察に連絡を!」

事態の深刻さに焦った所長が、受話器へと手を掛ける。
警察に連絡・・・・普通はそうするしかない。
だけど、それだと・・・・・・。

「待って下さい。このまま警察に任せれば、藤浪さんが犯罪者になってしまいます」
「いっいや、そんな事言ってる場合じゃ・・・・・・」
「じゃあ、どうするんですか?」

糸巻さんの一言で、その場の全員が静まり返り、僕の次の言葉を待つ。
井頭さんを早急に保護して、更に藤浪さんを犯罪者にしない方法。
取れる選択肢は、そう多くない。

「・・・・・・僕が行って来ます」

そう言って、僕は立ち上がった。


7.説得と制裁

ゴッ! ゴッ! と肉を軋ませる音が、何も無い部屋に響く。
井頭誠司は廃墟ビルの一室で椅子に縛り付けられていた。
顔は腫れ、口から血が滴り落ちる。
体にもYシャツの上から判る殴打痕が、幾つか見受けられた。

「グッ・・・・・・」

部屋には、数人の男女。
井頭の前に男が一人、窓際に女が一人、外に見張りの男が二人いる。

「井頭さん、藤浪さんが不憫だとは思わないんですか?」

井頭の前にいる男は、血の付いた自分の右手を見ながら、そう井頭に問うた。
長髪をオールバックにし、神父服に身を包んだ大柄な男は、それ相応の圧を放つ。

「・・・・・・」
「遺された人間は呪いを受けます。大切な人を失った悲しみで、日夜苦しむでしょう。
それとも・・・アナタにとって彼女の苦しみは、どうでも良い些事ですか?」
「・・・・・・私が築き上げた遺産は・・・彩香が受け取れる様、手配してある」

井頭の答えを聞いて、神父は落胆の表情を作った。

「どうやら・・・アナタは何も解ってない様だ」
「解って・・・いるさ。彩香の気持ちくらい。だが・・・私は物心付いた時に、一つ決めてしまったんだ」

そこで井頭は意志を示す様に力強い視線で神父を射抜く。

「人生を全身全霊で駆け抜ける。それは、私の根底部分。
変えてしまえば、私は私では無くなってしまうんだ」

井頭にとっては譲ることの出来ない、自明な生き様。
だが得てして、極端な人間は理解されづらい。
神父も例に漏れず、訝しげな顔で頭を振った。

「やはり・・・言葉とは希薄なモノですね。理解して貰うには痛みを与えるしかない」
「フッ笑わせてくれるね・・・・・・。暴力なんかで私の考えが変わると思ってるのか」
「・・・・・・これは制裁でもあるんですよ。自死なんて考えを持った愚か者に対してのね。それに・・・”説得”は、まだこれからですよ」
「・・・・・・」

井頭は目の前の男から、強い憎悪を感じ取った。
井頭・・・いや、”自死志願者”に対しての強い憎悪。

「鬼島さん、少し待ってください」

”説得の続き”が開始されようとした中、窓際にいた女から待ったが掛かる。

「・・・・・・何故だ」

鬼島と呼ばれた男は、咎める様に女を睨んだ。
女はそんな視線を物ともせず、ニッコリと微笑みを返す。

「お客様です」

そして・・・窓際から見える、敷地の入口を指差した。


8.因縁との出会い

僕は位置情報にあった、廃ビルの敷地入口に現着した。
あの後、『自分が行く』と宣言して事務所を飛び出し、車を走らせ今に至る。
僕は車から降りてドアを閉め、助手席に乗っていたもう一人も、同じ様に降車する。
そのもう一人、糸巻美織は長い袋を背負い、キリッと廃ビルを見上げた。

「ここですね」
「糸巻さん、ありがとうございます。付いて来てくれて」
「別に・・・気にしないで下さい。二人の方が早く終わるだろうし」

糸巻さんは澄ました顔で、なんでもない事の様に理由を伸べる。
僕にはそれが、気負わせない為の配慮に見えた。
所長はドライなんて言っていたけど、その実、彼女は人一倍情に厚い。

「それで、どうします?」

さて、一息ついたところで作戦会議の時間だ。
と言っても、僕はここに着いた時点で既にどうするかを決めているんだけれど。

「正面突破しましょう」
「・・・・・・水上さんって意外と大胆ですよね」

呆れた答えだったのか、糸巻さんにジトッとした眼を向けられる。
おっと、これはまずいな。
このままでは【猪神】とか【丁寧単細胞】とか、そういう不名誉なあだ名を拝命してしまいそうだ。

「ちゃんと理由もあるんです」
「聞かせて下さい」
「理由は――――」

そこで僕は、奥にある廃ビルの入口に目をやった。
釣られて、糸巻さんもそこへ目を向ける。

「既に、気づかれているからです」

そう言った瞬間――――。
廃ビルの入口から、ゾロゾロと三人の男達が涌き出てきた。
纏っている雰囲気は正しく・・・殉教者の其れ。

「なるほど・・・・・・」

それを視認して、糸巻さんも顔を引き締める。
僕達は近づいてくる男達に呼応する様に、敷地内へと歩を進めた。
そして両者間10メートル程になった所で、お互いに制止。
そのまま睨み合う様に、僕達は視線を交錯させる。
場が静寂に包まれた所で、僕は声を上げた。

「どうも、僕達は安整士の者です。ここに井頭誠司さんがいますね?」

僕が端的に問うと、三人いる内の真ん中、長髪の神父服を着た男が反応を示す。

「何の話・・・いや、茶番はいらんな。どうしてここが分かった?」
「勘です」
「フッ」

僕の変に堂々とした態度に、糸巻さんは我慢出来ずに顔を背ける。
それを見て、神父服の男はイラついた様に僕達を睨んだ。
だが直ぐに、乗せられまいと瞑目して落ち着きを取り戻す。

「・・・・・・まあいい。本来、安整士も標的だが俺達も忙しい。今、引き返せば見逃してやる」

そして神父服の男は、僕達の後ろを指差した。

「・・・・・・随分と、偉そうな犯罪者がいたものですね」

そんな様子を見て、糸巻さんが半眼で溜息をつく。
糸巻さんが呆れるのも当然だ。
拉致監禁という重罪を犯しながら、彼等からは一切の後ろめたさを感じない。

「そういう訳にも行かないんです。井頭さんを返して頂くまでは」
「なら、痛い目を見る事になる。言っておくが、女がいようが手加減はしない」
「・・・・・・」

その瞬間、空気がピリッと撓った様な気がした。
その空気に当てられ、僕の頬から冷汗が垂れた。
横を向いて確認しなくても分かる。
軽視される発言を受け、糸巻さんの雰囲気が段々と剣吞なモノに変わっていくのが。
普段なら怖くて逃げたくなる所だが・・・今は好都合だ。

「やれ」

神父服の男の合図で、左右にいる男達がコチラに近づいて来た。
僕達が一般的な男と細身の女性だからか、甘く見られているのが彼等の表情からヒシヒシと伝わって来る。
確かに、見た目は情報の宝庫だ。
オシャレに気を遣う人は社会性が高い。
刺青を彫る人は唯一性を求めている等、見た目にはその人の性質が滲み出る。
凡庸に見える人は、大抵が凡庸だ。
だが、常に例外というのは存在する。

「じゃあ僕は右、糸巻さんは左を」
「了解、ですっ!」

僕と糸巻さんは、そう打ち合わせると同時――――。

「ゔっ!」
「がっ!」

男達の腕と胸倉をそれぞれ掴み、頭からドガッと地面に叩き付けた。

「何だと!」

数秒前まで余裕の表情を保っていた神父服の男に、初めて動揺が走る。
今までも彼等は、こういう風に自分達の主張を押し通してきたのだろう。
だが、当てが外れたな。
そちらがその気なら、こちらも武力を持って制圧するまでだ。

「水上さん、先に行って下さい」
「・・・・・・分かりました。ここは任せます」

僕は糸巻さんの提案を受け、廃ビル内に向けて歩き出す。
だが当然、神父服の男はそれを良しとはしない。
僕を迎え撃つ為、臨戦態勢に入る。

「ふざけるな! 行かせる訳が――――くっ!」

しかし――――。
ズヒュンッと大気を切り裂き、唐突に男の顔目掛けて竹刀による突きが飛んできた。
それを彼はギリギリで躱すも、次の横薙ぎをモロに食らい、左方に吹き飛ばされる。
僕はその間隙を突き、廃ビル内へと侵入を果たす。
後ろでは、地に膝を付けた神父服の男に、糸巻さんが見下ろしながら竹刀を突き付けていた。
そして挑発的な笑みで、先程の軽視に対する答えを返す。

「私、”女”ですから、これぐらい許してくださいね?」
「この堕落者がっ・・・・・・。ズタボロにしてやるっ!」

僕は二人の声を置き去りにし、階段を駆け上がる。
廃ビル内は閑散としていた。
どうやら、ここは過激派連中の塒では無いらしい。
まあ、こんな窓もドアも無い吹き抜けでは、定住は難しいだろうしな。
だが、敷地内に六人乗りのバンが停めてある事を確認できた。
なら、あと一人二人は敵がいる可能性がある。
僕は細心の注意を払いながら、一気に三階まで上がり、迷わず階段から左四番目の部屋へと入った。

「失礼します」

その部屋にもドアは無く、入る前から井頭さんの姿を確認できた。
彼は部屋の中央で椅子に縛られており、満身創痍な状態だ。
そして、入口向かいの奥の窓辺に――――。

美しい修道女が腰掛けていた。

「こんにちは安整士さん。よく、この部屋が判りましたね」

修道女は絵画の様な微笑で僕を出迎える。
つい見蕩れてしまう様な微笑み。
だからこそ・・・ゾクリと来る。
聖処女の微笑と血塗れの男。
その二つが同居する異常な光景が、僕の画角に収まっている。
恐らくだが、彼女は惨殺死体を前にしても同じ様に笑う事が出来るんじゃないだろうか。

「貴方がその窓から、コチラを視ていたので」
「なるほど・・・”深淵を覗く時”というヤツですね。フフッ降参です」

そう言って彼女は、両手を軽く挙げた。
そのあっさりとした態度に、僕は面食らってしまう。

「・・・・・・それは、井頭さんを連れ帰っても良い・・・という事ですか?」
「はい。私にはもう、何も出来ませんから」
「・・・・・・・・・・・・井頭さ――――ッ!」

井頭さんに駆け寄ろうとした瞬間――――。
ビュンッ!
と”銀色の何か”が僕の横顔目掛けて飛んできた。
それを僕は、咄嗟に上体を引き戻して回避。
その”何か”は、奥の壁にギインッと音を立てて当たり、床へと落ちる。

・・・・・・ナイフだ。

この人はさも当然の様に、人の顔に向かってナイフを投げてきた。
もし、避けられていなかったら・・・・・・。
そんな考えが頭を過り、背筋に汗が滲む。

「あら? 躱されてしまいました」
「・・・・・・話が違います」
「フフッ女の言は、安易に信用しない方が良いですよ?」

そう言いながら彼女は、修道服の裾から腿の付け根まであるジッパーを、ジーーッと引き上げていく。
それにより、ガーターベルトとハイニーソックスで覆われた美脚が顕わになった。
だが、特筆すべきは美脚の方ではなく、ハイニーソに何個も付いているナイフホルダーだ。
その内の一つからナイフを引き抜き、彼女は恍惚とした表情で得物を見つめる。

「私、ナイフが好きなんです」
「・・・・・・いや、好きだからって投げないで下さい」
「ナイフは最高です。小振りで女性でも扱いやすいですし、形状も多様でどれも非常に魅力的です。
そして何より――――殺り易い」

彼女の顔は、既に微笑を湛えてはいなかった。
代わりに殺気が張り付いて、どんどん膨れ上がっていく。

「・・・・・・アナタの様な人が、この平和な国に存在するとは思いませんでした」
「フフッ」

そして彼女は、ナイフを構えながらググッと脚を溜め――――。

弾けた。

一瞬で間は埋まり、ナイフに拠る高速の刺突が僕を襲う。
それを僕は左へズレて躱すが、彼女は畳みかける様に刺突を放った右腕で肘鉄を繰り出して来た。
僕はその肘を手で受け止め、組み伏せる為にガッチリ掴む。
だが――――。

いつの間にか彼女のもう片方の手には、二本目のナイフが握られていた。

急いで、僕は後ろへと跳躍。
お陰で、ネクタイを真っ二つにされるだけで事なきを得る。
二本目のナイフを避けられたのが意外だったのか、修道女は静かにコチラを見据えた。

「・・・・・・やはり、素人の動きじゃありませんね」
「小さい頃に武道を習っていたんです」
「なるほど、分かりま・・・せんっ!」

僕の答えを軽口と受け取ったのか、彼女は再び距離を詰めてくる。
突きに斜め切りに、返す水平切りに回し蹴り。
僕は全て往なして、無力化する為の機を窺う。
そして、彼女が腕を交差して構えた処で――――。
僕はドッと踏み込んだ。
いきなり踏み込んできた事に、彼女は少し驚いた様だ。
それにより起こる、刹那の硬直。
その期を逃さず、僕は彼女の両腕をガッと両手で押さえた。
そしてお互い、相手に主導権を渡さぬ様にと腰を落とし、膠着状態となる。

「・・・・・・一つだけ訊いておきます。アナタ達は、何故こんなやり方を採るんですか?」

僕はそこで、以前から気になっていた疑問をぶつけてみた。
訊いても、納得のいく答えは得られないだろうが、まずは知らなければ何も始まらない。

「それは・・・こうでもしないと変わらないからです。穏健派は一生懸命デモなんかをやってますけど、そんな事で変わる訳無いじゃないですか。本当に愚かな連中です」
「暴力が賢明だとでも?」
「フフッ暴力も割と効果あるんですよ? 痛みは生を実感させます。
所詮、『死にたい』なんて気持ちは、一時的な気の迷いなんですよ」

それを聞いて、僕の眉根がピクリと動く。
彼女の答えは僕にとって、到底許容できる物ではなかった。
今の発言は、僕が今まで出会った来た人達に対して唾を吐きかけるモノだ。
それだけは・・・絶対に認められない。

「確かに、そういう方もいるかも知れません。ですが・・・真剣に悩んで、苦しんで来る方が殆どです。そして――――その双方に同じ権利があるんだ!」
「私は認めません。神から頂いた生命を人の裁量で終わらせる?
フフッ・・・そんな不敬――――赦される筈が無いじゃありませんか」

僕は・・・いや僕達は、今お互いに理解し合えないことを理解した。

「「・・・・・・」」

シンッと空気が張り詰める――――。
視線が交錯し、相手の一挙手一投足を見逃さない様に、互いに息を止める。
心臓の律動が段々と早鐘を打ち、瞳孔を拡げていき、そして・・・静寂を破る様に――――。

修道女は、膝を振り上げた。

それを僕は右手で受け止める。
だが、右手を使った事により、彼女の左腕が解放されてしまう。
そこまでを見越しての一連の仕掛け。
必然、彼女の左手に握られたナイフが、僕へ向かって銀閃を描いた。
仕留められれば良し。
仕留められずとも、引かせて仕切り直す為の一手。

だが――――それは悪手だ。

グイッ!
と、僕はまだ掴んでいる彼女の右腕を、思いっきり引っ張った。

「なっ!?」

膝を振り上げ、片足一本で立っていた修道女は、簡単にバランスを崩す。
そこを僕は透かさず――――。

掌底で彼女の顎を打ち抜いた。

パゴッ! 
という音と共に、彼女の瞳が焦点を失う。
どうやら、ちゃんと脳は揺らせたみたいだ。
ナイフを取り落とし、立って居られなくなった彼女を、僕は抱きしめる様な形で支える。
そして、身体を這わせる様に腕を首に回し、そのまま羽交い絞めにした。

「ぐっ・・・・・・!」

修道女は小さな呻き声を発しながら、力無く僕の腕を掴む。
だが、もう彼女にはどうする事も出来ないだろう。
段々と首は絞まっていき、シャットダウン迄のカウントダウンが幕を開ける。
必死に窒息感から逃れようと身を捩るが、弱々しい。
そして、そんな最後の抵抗虚しく――――。
ビクビクンッと痙攣した後に、修道女の全身から力が抜けた。

「ふぅ」

何とか無事、無力化に成功し、僕はホッと胸を撫でおろす。
だが直ぐに、女性を絞め落としたという状況に、沸々と罪悪感が湧いてきた。
同情の余地は無いはずだが、そのままというのも寝覚めが悪い。
一応、彼女を壁に凭れ掛けさせ、僕もスッと肩の力を抜いた。

「信仰とは、中々難しいモノですね・・・・・・」

想像していた以上の異常者と遭遇し、僕はついそんな感想が漏れる。
これが過激派か・・・・・・。
何か対策を講じたい所だが、今は井頭さんを急いで病院へ運ばなければならない。

「井頭さん、大丈夫ですか?」

僕は修道女が落としたナイフを拾い、それで井頭さんの拘束を解く。

「ああ・・・問題ない。迷惑を掛けたね」
「いえ、これも仕事ですから」
「・・・・・・”これ”が仕事か。フッ・・・君は本当に良い人だね」

そう言った井頭さんは、やはりこの前と同じ様に嬉しそうな顔をしていた。
だが、僕は別に良い人ではない。
自分が正しいと思っている事をやっているに過ぎない。
人は一人では生きられないから。
僕はその『一番大事なこと』を、今まで出会って来た人達に教えて貰ったというだけだ。


9.安整士の在り方

僕は井頭さんに肩を貸し、傷に響かない様ゆっくりと階段を下りる。

「あっ水上さん、おかえりなさい」

廃ビルを出た所で糸巻さんに声を掛けられた。
良かった・・・どうやら糸巻さんも無事制圧できた様だ。
と、そう安心したのも束の間。
僕と井頭さんは、目の前の光景にギョッとさせられる。
糸巻さんは休憩していた。
・・・・・・地面に倒れ伏した神父服の男を椅子にして。
竹刀を肩に掛けて座っている様は、まるでレディースの総長だ。

「流石ですね・・・・・・」
「安整士は皆、腕っ節が強いのかい?」
「い、いえ、決してそんな事は・・・ハハハ・・・・・・」

井頭さんが疑問を浮かべるのも当然だ。
僕としては誤魔化す他ない。
当然、僕達が少数側な訳だが、この状況じゃ否定しても説得力は無いだろう。

「とにかく、急いで病院へ向かいましょう」

もう危険は無いと思うが、兜の緒は締めなければならない。
いつ過激派連中が起き上がって来るか分からないし、井頭さんの傷の具合も気になる。
そう思い、僕達が廃ビルを後にしようと歩き出した、その時――――。

「待っでぇっ!!」

突如、後ろから女性の大音声が鳴り響いた。

「藤浪さん・・・・・・」

振り返った先にいたのは井頭さんの内縁の妻、藤浪彩香。
彼女が、ここにいるのは分かっていた。
恐らく、今まで廃ビル内の何処かに隠れていたのだろう。
彼女はフラつきながらコチラに近付いてきて、井頭さんの足元へと縋る様に這いつくばった。

「お願い・・・待って・・・私を、置いて行かないで・・・・・・。
私はまだ・・・貴方に何も返せてないっ!!」

藤浪さんの悲痛な慟哭。
それを聞いて、僕達は動けなくなる。

「誠司さん・・・貴方が私にしてくれた事は・・・命を賭しても返せるモノじゃない。でも、だからって・・・このまま別れるなんて・・・そんなのあんまりじゃない・・・・・・」

藤浪さんは想いを吐露しながら、土下座の体制で丸まっていく。
縮こまった人間は、これ程までに小さく見えるのかと、彼女の背中を見ながら僕は思った。

「・・・・・・」

井頭さんは傷だらけの顔で、そんな藤浪さんを静かに見つめていた。

「いや・・・本当はそれもっ・・・こじつけで・・・・・・。
私は只っ・・・貴方と・・・ずっと一緒に・・・・・・・・・・・・」

そして慟哭は哀願へと変わり、嗚咽が交じり、言葉尻が掠れて消えていく。
人間は、共感性を持つ生き物だ。
好きなモノを共有できれば嬉しくなり、傷を見れば痛みを想像してしまう。
だからか・・・藤浪さんの強い想いが、僕達の心に苦しいほど流れ込んで来た。

「水上さん・・・・・・」
「・・・・・・」

糸巻さんはどうしていいか分からず、判断を仰ぐ様に僕を見る。
だが・・・僕達に一体何が出来る?
安整士の仕事は、依頼者の権利を守る事だ。

「ゔっ・・・ゔっ・・・・・・」

静まり返った廃墟で、藤浪さんの呻き声だけが僕達の鼓膜を揺らす。
僕達が、何も出来ずに立ち竦んでいると――――。

「・・・・・・行こう水上君」

井頭さんは突き放す様に、そう言い放った。

「っ!? 井頭さん、アナタはっ――――!」
「落ち着いてくれ。この問題はもう・・・平行線を辿るしか無いんだ」

そんな非情とも見える彼の態度に、糸巻さんが詰め寄って来る中――――。

「・・・・・・」

僕は咽び泣く藤浪さんから、目が離せないでいた。
安整士として、依頼者である井頭さんの意向は絶対だ。
二人の問題に口を出すべきじゃないという考えも、変わってはいない。
・・・・・・かといって、藤浪さんをこのまま放置するのか?
それは、二人にとって最悪な結果に成り兼ねない。‎
だが、逆方向に歩き出した二人が、再び連れ添う様な答えなんて・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
いや、一つだけ・・・ある。
あるには、あるが・・・安整士として、それだけは出来ない。
それをしてしまえば、僕は・・・・・・。
諦念の渦に吞み込まれようとした時、僕はふと”ある人物”の事を思い出した。
テキトーで横柄な・・・でも、人情味溢れた僕の恩人の姿を・・・・・・。

木倉さん・・・貴方なら、どうしたでしょうか?

僕は――――――――。

「藤浪さん」
「っ・・・・・・」

名前を呼ばれ、彼女は少し肩を震わせながら僕を見上げる。
藤浪さんと目が合った所で、僕は意を決して口を開いた。

「僕から、提案があります」


10.番いの形

監禁事件から一週間後。
僕は病院の廊下を歩いていた。
少し後ろから、糸巻さんも付いてきている。
僕達が無言で急いているせいか、カツカツという靴音がやけに耳に届く。

「・・・・・・」
「水上さん」
「はい」
「本当に・・・これで良かったんですか?」
「・・・・・・分かりません」

糸巻さんの迷いに対して、僕は振り返らずにそれだけを答える。

「・・・・・・すみません。余計な事を聞きました」
「・・・・・・」

それ以来、僕達は口を閉ざして、ひたすらに足を動かす。
しばらくして、目的の病室の前へと辿り着いた。
僕は一呼吸置いて、コンコンと戸を敲く。

「開いてるぞぉ」

中からの返答を確認して、僕達は病室に入る。
そして、声の主に挨拶をした。

「おはようございます。間先生」

この人は間 葉太郎(はざま はたろう)。
小さな体躯に乱れた白髪、それでありながら底知れない威厳を感じさせる老医者。
ウチの事務所が、いつも投薬の際にお世話になっている先生だ。
先生はデスクに視線を落としながら、何やら書き込んでいる。

「おう、準備は出来てる」
「はい」

間先生と短い確認を終え、僕は病室の奥に目を向けた。

「お待たせしました。考えにお変わりはありませんか? 
井頭さん・・・そして――――藤浪さん」

そこには”二人”の依頼者の姿があった。

「私に安楽死を提案した、アナタがそれを訊くんですか?」

そう言って、藤浪さんは笑顔を見せてくれる。
隣にいる井頭さんの顔には、まだ薄く傷跡が残っているが、もう痛みは無さそうだ。
二人は病衣に身を包み、ベッドから上体を起こして並んでいた。

「すみません。規則で最終確認をしなければならないんです。生死の問題ですから」

僕がそう笑顔で返すと、僕と藤浪さんの間に少し弛緩した空気が流れる。
お陰で・・・僕の心も少しだけ晴れた気がした。

「・・・・・・彩香」
「ん?」
「本当に・・・良いのか?」

しかし、落ち着いた藤浪さんとは逆に、井頭さんは苦悶の表情を浮かべていた。

「ええ、何度も言ったでしょ。私は貴方と一緒にいたいの」
「だがっ――――」
「もう、決・め・た・のっ! 貴方が生きるなら私も生きるし、貴方が死ぬことを望むなら・・・私も一緒に死ぬわ」

藤浪さんは澄んだ目で、井頭さんの目を真っ直ぐに見つめる。
その視線からは『これだけは譲らない』という強い意思が伝わって来た。

「・・・・・・君は時々、本当に頑固になるね」
「貴方だけには言われたくないんですけど・・・・・・」
「フッ・・・そうだな」

半眼で見咎められ、流石の井頭さんも『観念した』という風に苦笑う。

「というか貴方がここまで反対するなんて意外ね。誰に対しても『選択は君の自由だ』ってスタンスだったのに」
「私だって・・・妻の心配ぐらいはするさ」
「・・・・・・本当にずるい人ね。貴方は」

そのやり取りには、愛し合う者の哀愁が漂っていた。
藤浪さんは今、ここでやっと・・・井頭さんの隣に立つ事が出来たんじゃないだろうか。
ただ後ろを付いて回るだけじゃなく、共に歩む。
夫婦とは不思議なモノだ。
在り方は千差万別。
別に何が正解という訳でもない。
それぞれが相手と折り合いをつけながら、自分達なりの形を構築していく。

「安整士さん、そういう事なので私の意見は変わりません」
「私も変わらないよ」
「そう・・・ですか」

改めて、コチラを向いた二人の表情は晴れやかなモノだった。
それを見て僕は、安心した様な、申し訳ない様な、複雑な気持ちになる。

「・・・・・・依存してる、気持ち悪い奴だって思いました?」

そんな僕の心情が変な風に伝わり、藤浪さんを勘違いさせてしまう。
依頼者を不安にさせるとは、僕は安整士失格だ。
もう・・・迷っている場合では無い。

「藤浪さん、貴方は自分の意志で、井頭さんと過ごす時間に意味を見出した。
それは・・・人にしか出来ない、価値のある事だと僕は思います」

僕の返答が予想外なモノだったのか、藤浪さんは目を丸くする。
そして直ぐ、何かを悟った様に相好を崩した。

「ごめんなさい。私、貴方の事を誤解してたみたい・・・・・・。
時間があったら、もっと話してみたかったかも」
「えっと・・・それはどうも」
「水上君、人の妻を誑かさないでくれないか?」
「何、妬いたの? まあでも私、法的にはアナタの妻じゃないからなあ」
「籍を入れておくべきでしたね。井頭さん」
「・・・・・・言ってくれるね」

『してやった!』とばかりに笑う藤浪さんに、井頭さんは苦い顔をする。
病室全体が柔らかい雰囲気に包まれた。
もうすぐ・・・二人の旅は終点を迎える。
未だに、これが正しい選択なのかは分からない・・・・・・。
だが――――。
この光景には・・・意味があった。
二人の顔を見て、僕はそう思う。
で、あるならば・・・僕があと出来る事は、彼らを後顧の憂い無く送り出してやる事だけだ。

「じゃあ、お願いします。間先生」
「ああ、分かった」

僕達のやり取りを見て、井頭さんと藤浪さんは、遂に”その時”が来た事を悟り、顔を見合わせる。

「「・・・・・・」」

藤浪さんは、井頭さんの手に自分の手を重ね合わせ、井頭さんもそれに答える様に藤浪さんの手を握り返した。
もう離れない様にと・・・互いの存在を確かめ合う。

「井頭さん、藤浪さん。今までの人生・・・大変お疲れ様でした。次も良い旅を・・・・・・」

僕は深々と頭を下げながら、彼らへ葬送の言葉を贈る。
それを聞いて二人は・・・・・・。

穏やかに笑った。


ED

「お疲れ様~!」

諸々の処理を終えて事務所に戻っ来た僕達を、所長は明るく出迎えてくれる。
時刻は20時を回り、すっかり終業時間を過ぎていた。

「いや~二人共、今回は大変だったね~」
「はい。もう少しで大事になるところでした」
「いやいや、十分大事ですから・・・・・・」

僕の楽観的な態度に、糸巻さんは呆れ顔で頭を振る。

「まあまあ美織ちゃん。何はともあれ、二人が無事で良かったよ。
藤浪さんの件に関しては・・・決して褒められないけどね」
「・・・・・・はい」

藤浪さんの件で僕は危ない橋を渡った。
【安楽死への誘導】は、安整士が最もしてはいけないタブーの一つ。
上に知られれば、良くて懲戒免職、悪ければ自殺幇助で実刑を食らう。
でも、あの時・・・僕はそうするべきだと思った。
例え、安整士失格の烙印を押されたとしても・・・・・・。
状況を鑑みて黙認してくれた所長には、本当に感謝している。

「で、過激派連中の方は見逃して良かったの?」
「今回は仕方ありません。彼女等が捕まってしまえば、藤浪さんが首謀者である事が露呈してしまいますから」

そして、懸念も残った。
過激派に関して、今はどうする事も出来ない。
だが安整士でいる限り、また会う事もあるだろう。
その時に改めて、懸念は取り払えばいい。

「まぁそうですけど。あんな危ない連中が野放しになってるなんて、少し怖いですね・・・・・・」
「え~美織ちゃんなら大丈夫でしょ。か弱い乙女じゃないんだから~」

その瞬間、いつぞやと同じ様に空気がピリッと撓る。

「あ」

所長のいつものやらかしに、僕は思わず声が漏れた。
確かに僕も大丈夫だろうとは・・・いや、断じて思ってない。
糸巻さんは底冷えする笑顔で、所長を見据えた。

「・・・・・・所長、今日は飲み会ですね。勿論、所長の奢りで」
「なんで!?」
「当然でしょう。所長は今回、何もやって無いんですから。
部下の労いくらいはして下さいよ」
「あ~でも僕、この後ハニーと予定が・・・・・・」
「恵子さんには了承貰ってます」

そう言って糸巻さんは、『この紋所』よろしく携帯を翳して見せる。
その印籠には、メッセージアプリが表示されていた。

「いつの間にっ!?」

それを見て所長は、『ハハ―』とでも言わんばかりに仰け反ってみせる。
こうなればもう、後はお縄を頂戴するだけだ。
糸巻さんは満面の笑みで、所長が逃げない様に腕を引っ掴む。

「水上さんも行きますよね? 一緒に、このロクデナシの財布を空にしてあげましょう」
「ヒドイよ~美織ちゃ~ん」

先の件で所長には借りがあるが、それとこれとは話が別だ。
折角、上司が奢ってくれると言うのなら、社会人として、ご相伴に預からねばならない。

「ええ、もちろん」

今回の依頼は、これにて完遂。
色々あったが、何とか収める事が出来た。
しかし、悩み苦しんでいる人々は、まだまだ沢山存在する。
安整士として、一人でも多くの人の選択を尊重したい。
それが、僕が見つけた”生きる意味”。
でも、今は・・・肩の力を抜いて疲れを癒そう。
そう思い――――。
僕は二人に続いて、事務所を後にした。                                        

                                    case.1 完

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